グイノ神父の説教



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          年間第13主日C年   2016626日   グイノ・ジェラール神父

             列王記上19,16,19-21  ガラテヤ5,1,13-18  ルカ9,51-62

   「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、イエスは断言しました。 イエスご自身が鋤に手をかけたので、エルサレムの方に目を向けています。 自分がどこに行くのかイエスはよく知っておられ、死に向かって歩んでいます。 「イエスは天に上げられる時期が近づくと、勇気を持ってエルサレムに向かう決意を固められた」。

   イエスは既に、地上での自分の旅の終焉をご覧になりました。 神の光と命のうちに全人類を連れて行くために、イエスはこの世に来られました。 確かに、エルサレムで自分を待っている恐ろしい死を見るよりも、イエスはその死を遥かに超えてもっと遠くを見ているのです。 と言うのは、どのようにご自分の受難が全人類を救い、新たにするかをイエスは既にご覧になっているからです。 ご自分の死によって、イエスがご自分の復活に私たちを与らせることと、神の栄光と親密さの中に私たちを組み入れることを良く知っておられるのです。

   自分が決めた道を踏み外さずに、また後ろを振り向かずに、イエスはエルサレムを目指して進みます。 サマリア人がイエスを歓迎することを拒否しても、イエスはエルサレムへ歩み続けます。 それどころか、自分たちを歓迎しなかったサマリア人を焼き滅ぼそうと考えたヤコブとヨハネを、イエスは厳しく咎めました。 さらに、自分の後を歩いて弟子になりたい人々を解りにくい厳しい言葉で落胆させました。 ご自分の使命を完成するために、イエスは孤独であることをわざと選んでいるようです。 たしかに、晩餐の日の夜、イエスはひとりぼっちになることを確認します。 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。 いや、既に来ている」(ヨハネ16,32)と。

   今日みなさんが聞いた福音の身近な箇所は、次のことを思い起こさせます。 イエスを自分の人生に歓迎することを拒む人々は、いつも居ます。 またイエスの評判を守るために何もかも暴力で行う人々も、いつも居ます。 寛大な心を持ってイエスに従いたい人が居ますが、残念なことに色々な理由で彼らは司祭職まで行くことも、教会の中で特別な使命を受けることも出来ません。 更に他の人々はキリストの後について行くために特別な条件を出し、期間を要求します。 また、ある人たちは自分の家族、所有物、自分の計画に強く繋がれて、或いは過去に向かって生きているので、彼らは神の国を告げ知らせるために決して自由な人となれないのです。

   キリストの後に歩むと決心した人は、必ずキリストのように孤独、排斥、無理解、そしてある種類の暴力を受けるでしょう。 起こるか起こらないか分らないのに、来るべき困難を考えることは必要ではありません。 大切なことはイエスのそばに留まることであり、そして揺るぎない信頼を持って注意深くイエスの口から出る一つひとつの言葉に耳を傾けることです。 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、イエスはもう一度私たちに聞かせます。

   私たちはみんな、イエスの後に従い、その後を歩くことを自由に決心しました。 日常生活の様々な出来事にぶつかっても、イエスは私たちの直ぐそばにおられることを、決して忘れないようにしましょう。 私たちを助け救うために、イエスは手を差し伸べる覚悟をしています。 私たちが神の国へ一歩、一歩自分の真っ直ぐな歩みをし続けるために、イエスはいつも直ぐそばにおられます。 ですから、何も恐れずにイエスと共に命の道を歩み続けましょう。 アーメン。


            年間第14主日 C  201673日     グイノ・ジェラール神父

               イザヤ 60,10-14    ガラテヤ 6,14-18    ルカ10,1-12,17-20

  エルサレムの都とご自分の民のために、神がなさろうとしている事を知った預言者イザヤは、大いに喜んでいます。新しい創造を目指して、苦しみのうちに実践している自分の使命について聖パウロも大いに喜んでいます。自分たちの希望を遥かに超えた結果を見て、遣わされた七十二人の弟子たちは大きな喜びを心に抱いて、イエスの元に戻りました。イエスも喜ぶように私たちを招いています。と言うのは、私たちの名は天に書き記されているからです。

  神に仕えること、救いのよい知らせを宣べ伝えること、神のいつくしみを宣言することは、自由と勇気を要求します。「さあ行って、狼の群れに小羊を送り込むように、わたしはあなたがたを遣わす。財布も袋も履物も持っていくな。途中でだれにも挨拶をするな」とイエスは薦めています。七十二人の弟子たちはイエスの言葉に従ったので、その結果受けた予想外の成果を見て喜びのうちに戻ってきました。「主よ、非常にうまくいきました。あなたの名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と彼らは自慢げにイエスに告白しました。

  悪、病気、死さえ引き下がらせるものは、私たちが持っている物質や服やお金ではありません。ただ神が与える柔和、信頼、赦しと平和だけが人々の心を慰め、人々の体を癒し、そして新しい創造を現すことができるのです。神のいつくしみはいつも謙遜と物事の欠如のうちに、力強く全力を発揮します。何も持たずに、主の名前を使うだけでたくさんの良い業と素晴らしい出会いができることを発見するなら、何という喜びでしょう。私たちの内にある神の柔和と平和が、不信を人々の心から追い出し、人の家のドアも、人々の心も大きく開くことができると体験すれば、何という喜びでしょう。

  人と出会う度に、もし私たちが神の平和をもたらすなら、神のいつくしみは至る所に喜びをあちらこちらに広めながら、力強く働くことができます。悪が追い出された時、体が回復の恵みを受けて癒された時、心が慰められた時、私たちもイエスの弟子たちのように大いに喜びましょう。神の手の中に私たちの名前が刻まれていること、私たちもその手の中に安全に置かれていることを大いに喜びましょう(参照:イザヤ49,16)。この喜びは、私たちが味わったすべての喜びを遥かに超えていて、永遠に残るものです。

  狼の群れに小羊を送り込むように遣わされることは、慎重で賢明なことだと私たちが信じることができるように、神は安全にご自分の手の中で私たちを守ります。すべてに逆らって、神は信仰のうちに私たちを守っておられます。そして、イエスの名によって願うことすべては既に得られたことを(参照:マルコ11,24、ヨハネ14,13)私たちはよく知っています。

  ですから、揺るぎない信頼を持って、私たちが行く所、また聖霊が私たちを導く所で、神の平和のメッセンジャー、神のいつくしみの証人となりましょう。私たちが与える信仰の証しは、大勢の人々のために大きな喜びと偉大な恵みの泉となりますように。「収穫が多い」とイエスが約束していますので、私たちは決してためらうことができません。アーメン。


          年間第15主日 C年  2016710日   グイノ・ジェラール神父

                申命記30,10-14  コロサイ1,15-20  ルカ10,25-37

  神の掟は愛の言葉です。 申命記が教えているように、この日に聞いた言葉はすべての人に及びます。 律法学者にイエスが答える時、それを再び確認します。 「隣人を自分のように愛しなさい」(参照:レビ19,18)と。

  信仰の第一歩というのは、無条件に無償で自分が神に愛されていると知ることです。 この世を造る前から神は私たちを愛しています(参照:エフェソ1,4)。 神の愛を承諾することで私たちも愛することができるのです。 ところで、私たちには「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして隣人を自分のように愛すること」が頼まれています。 それが誰にでも出来ることを見せ、そして教えるためにイエスは善いサマリア人のたとえ話を語りました。

  愛には境がありません。 ユダヤ人、サマリア人、カトリックの人、あるいは異邦人であろうとすべての人が愛される権利を持っていて、また他人と出会うための勇気を自分の心の奥底に持っています。 すべての人はたとえ話のサマリア人のように行うことができるので、イエスは私たち一人ひとりに次のように言っています。 「行って、あなたも同じようにしなさい」と。 隣人というのはすべての人です。 また、隣人というのはその人が誰であろうと、その人に近い者となるために努力する私たち自身です。

  日常生活において、私たちは数え切れないほどの人々に近い者となっています。 この人たちは親戚であり、友人であり、職場の仲間であり、そして知り合いの人や道で出会う知らない人であり、またはバスや電車の中で自分のそばに座っている人であります。 また出来る限り私たちが病人や一人暮らしの人、あるいは災害の犠牲者や希望を失った人々に近い者となる時に、その人たちの隣人となります。 すべての人に耳を傾け注意深くなることによって、いつでもどこでも私たちは彼らの隣人になることが出来ます。

  私たちがキリストの名によって行動するために、いつくしみの特別聖年の恵みが私たちの助けとなりますように。 それは私たちと出会うすべての人が神に望まれ、愛され、尊敬されていると感じることが出来るためです。 すべての人が私たちを通して彼らを愛し、慰め、癒す神を発見できるように主イエスに願いましょう。

  たとえ話のサマリア人は、強盗に襲われた人の傷に油とぶどう酒を注ぎました。 キリスト者である私たちにとって、油とぶどう酒は聖体と聖霊の賜物のしるしです。 誰かの隣人になることによって、その人を祈りの内に支え、そしてミサに与る時、その人をいつくしみ深い神に紹介することを忘れないようにしましょう。 そうすれば、神への愛と隣人への愛が完全に実現されるでしょう。 なぜなら「神はすべてがキリストの内に完全にされるのを望んでいる」(参照:コロサイ1,28からです。

 今日、聖パウロは私たちに次のことを思い起こさせます。 愛、信仰、希望のうちに祈ることによって、またはミサに与ることと具体的な愛徳の業を行うことによって、私たちの道にイエスが遣わすすべての人を『神の宿屋』に導きましょう。 人間になることによって、イエスは全人類の隣人となりました。 永遠にイエスは全人類と一致しています。 そういう訳で、イエスを信じる人は神に自分の心を向かわせる事と同時に、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、すべての人を愛さなければなりません。 アーメン。


        年間第16主日  C年  2016717日    グイノ・ジェラール神父

                創世記 18,1-10    コロサイ 1,24-28   ルカ10,38-42

  温かいもてなしは、聖書の最も大切な伝統的な勤めです。 遠い昔から、外国人や旅人を歓迎することは聖なる義務です。 このように、自分の幕屋の傍を通り過ぎる不思議な旅人を歓迎するために、アブラハムはすぐ昼寝の時間をやめ、彼らの前に走ります。 彼らを無視することは、アブラハムにとっては面目を失うことであり、不名誉を受けることであります。 マルタもイエスに良い歓迎ともてなしを与えるために急ぎますが、同時に、もてなしのために何もしない自分の妹をとがめます。

  現代では人を歓迎することを尊重する人は少なく、もてなしはもう当たり前のことではありません。 それは文化の発展と関係があるのかも知れません。 というのは、この世界で「各人は自分のため」という生き方になったからです。 そういう訳で、知らないお客さんや外国人や移民が招かれない侵入者や邪魔者として認識され、または危険な人物のように考えられて注目されています。

 さて、マルタはイエスに良い歓迎を与えるために全力で知恵を尽くすのです。 ですから、イエスの話をゆっくり聞くために座る時間が全くありません。 勿論、働きながらマルタはイエスの言葉を聞くことができても、彼女はイエスに振る舞うご馳走の準備のために忙しすぎて、思い悩むのです。 私たちも「とても忙しい。 ああ、忙しい、忙しい」という習慣を持っています。 そしてマルタのように、私たちも神の言葉を聞くために座る時間がありません。

  うんざりしないように、また退屈な時を避けるために、私たちはじっとしていられないほどの活動をし続けています。 その結果、私たちは親戚の人々と友だちの声に耳を傾けることを忘れてしまいます。 私たちの出会いは耳の聞こえない人々との対話であり、各人は自分のさまざまな問題や活動の虜になっています。 現代の人々は顔と顔を合わせて、誰かと真剣に話すよりも、自分の携帯電話でつまらないメッセージを送るだけです。

  最も大切なことを再発見するようにと、マルタの妹のマリアとアブラハムが私たちを誘っています。 言い換えれば、この落ち着くことのない不安な世界で私たちは人を歓迎し、受け入れ、ゆっくり話を聞くことができるように、時間を見つけなければなりません。 この態度によって神は、人と私たちの出会いを真理の溢れる豊かな出会いへと変化させることができます。 「マリアはよい方を選んだ。 それを取り上げてはならない」とイエスは私たちに断言します。 この「よい方」というのは だれかれなしに、何でもかんでも聞くことではありません。 むしろ、人との出会いの中心に私たちと共におられ、私たちのために働く神を発見するよい方です。 この大切な発見は、私たちの日常生活の忙しさを遥かに超えています。

 ですから、毎日の生き方のうちに神を探し見つけることを恐れてはいけません。 また出会うすべての人々のうちにも神を発見することも恐れないようにしましょう。 神こそが「道、真理、いのち」であるから、神が私たちをつかまえることを可能としましょう。

 イエスを信じる人にとって、もっとも大切な事とは、イエスの友情を信じることです。 そして自分の人生の中でイエスにたくさんの場所を与えることです。 「私たちの内におられるキリストは、栄光の希望です」(参照:コロサイ127)と聖パウロが思い起こさせます。 私自身も、聖パウロのと同じように「イエス・キリストを宣べ伝えます。すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くして、私は「栄光の希望」であるイエス・キリストを教えています」(参照:コロサイ128)。 ですから、皆様にお願いします。 私が皆様を受け入れ、思いやりで歓迎して、イエスの元へ、そして父なる神の国へ導くように、という私に委ねられた使命を忠実に果たすように、是非私のために祈ってください。 アーメン。


            年間第17主日C年   2016724日   グイノ・ジェラール神父

                   創世記18,20-32  コロサイ2,12-14  ルカ11,1-13

  求めるということは、何であるかをイエスはよく知っています。 というのは、毎日自分の傍に来た人々の願いと祈願に、イエスは適切に応えますから。 祈りについて尋ねた一人の弟子の願いにイエスは直ぐ答え、同時にどんな風に願うか、また何を願うかについて教えているのです。 事実この教えによって、イエスは霊的なレベルを通して物質的なレベルまで、つまり神のレベルを通して人間のレベルまで私たちを導きます。 なぜなら、神に祈るということはパンや卵、また魚を必要とする人にそれを与えることを要求するからです。 また、神に祈るということは、お互いの過ちをゆるし合い、仲直りすることを要求します。

  神に祈ることと、私に助けを求める人を助けることは、切り離すことができません。 そういう訳で自分の教えを終わるとき、イエスは私たちが正しく行うために、神が必ず私たちに聖霊を与えることを約束します。 確かに私たちも何を求めれば良いのか多くの場合分りません。 確かに私たちの内に神に反する物事があるので、「聖霊は自らが、言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成してくださるのです」(参照ローマ8,26-27)私たちの内に嘆く聖霊は、必ず神が私たちのために望むことを求めています。

  求める方法は様々あります。 たとえば叫びながら、泣きながら、また怒りにじだんだを踏みながら、しかし謙遜に求める方が余程好ましいです。 聖霊の息吹によって示された謙遜は、叩いたドアを開け、そして願ったことを手に入れます。 「求めなさい。 そうすれば、与えられる。 探しなさい。 そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。 そうすれば、開かれる」。 私たちは謙遜に神に向かって助けを願うとき、聖霊は私たちの声を借りて、神の父としての心を動かす言葉を聞かせてくださいます。

  生きるために助けを願っている人々に、適切なものを与えるために、聖霊は私たちの内に働いています。 確かに、私たちは卵と魚の代りに蛇やさそりを与えるような悪い人ではありません。 しかし、私たちが不注意によって良くないものや危険を引き寄せるものを与える可能性はもっています。 そのため、私たちにとって聖霊の助けは必要不可欠です。 私たちが卵とさそりを区別するため、即ち悪いことと良いことを区別することができるように聖霊が教えて下さいます。 同時に神は確かに私たちの父であり、私たちが神の愛する子供たちであることを悟らせます。 更に、天に行われるごとく地においても父なる神のみ旨を行うこと、神の名を聖とすることを聖霊は学ばせます。

  アブラハムは、ソドムとゴモラという町の人々の命を一生懸命に願いました。 彼は信頼を持って諦めずに神に願いました。 命の危機が迫っている全ての人のために私たちが神に執り成すように、今日アブラハムは私たちを招いています。 イエスが弟子たちに教えた祈りは、数えきれないほど大勢の人の命を救うために効果的な祈りです。 ただ、一人の正しい人は偉大な群衆を救うことができると聖書は私たちに教えています。 「よく見て、悟るがよい。 広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。 いれば、わたしは皆を赦そう 」(参照:エレミヤ5,1)と、神は預言者エレミヤに約束しました。 「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか。 彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」(エゼキエル18,2333,11)と、神は2回繰り返して預言者エゼキエルを納得させようとしました。

  私たちはイエスの死と復活によって義とされました。 ですから、信頼を持って父なる神に全世界の人々が完全と安全に生きるように、特に永遠の命に与れる者となるように願い求めましょう。 私たちが皆、ますます神の愛する子供たちとなるために、聖霊が助けますように、また父なる神と共に心を尽くして、全ての罪びとの救いを願いましょう。 なぜなら、このようにすれば確かに私たちは、最もよく神のみ旨を行うと同時に神の名を聖としますから。 アーメン。


        
年間第18主日C  2016731日   グイノ・ジェラール神父

       コヘレト1,2 2,21-23    コロサイ3,1-5,9-11  ルカ12,13-21

 時々聖書の教えは矛盾したことを述べています。 たとえば、創世記の本は仕事を果たす必要性を大事にしています。 そして仕事によって、人は神からいただいた賜物を実らせるという責任があることを教えています。 タレントのたとえ話の悪い僕、あるいは怠惰と何もしない態度を厳しく咎めるイエスのすべて言葉を思い起こしましょう(参照:マタイ25,14-30、マタイ20,1-6)

 しかも、聖書の中で人間の仕事と活動の大切さを過小評価をしたり、あるいは相対化する箇所は多くあります。 「すべてはむなしい」と今日、はっきりとコヘレトは断言しました。 同様に、自分の手でよく働いたことを自慢する(使徒20,34-351テサロニケ2,9)聖パウロも、今日の手紙を通して仕事を優先的なものとしないように、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と強く勧めています。 さらに、今日の福音で、イエスは「命」と「自分のために積んでいる物質的なもの」を敵対させます。 イエスにとって「神の前に豊かになること」は本当の命であり、真実の宝であります。

 勿論、イエスは人々が仕事によって手に入れた豊かさを批判していません。 また、イエスは決して人々の自分の富の使い方を咎めません。 ただイエスはコヘレトの言葉を繰り返し強調します。 「必要でない物事のために苦労する事も悩む事も必要ではありません」と。 なぜなら、自分を守り、安心させるために、何でも所有する本能的な傾きが私たちのうちにあるからです。 確かに、晩年になって仕事を引退して、安定した暮らしができるように、大勢の人が一生懸命に、残業をして働いています。 しかし、神はこの人たちに「あなたたちは愚か者です。 無駄に苦労しています。 何よりも大切にするべきものは、あなたたちの命です。 それは唯一つであり、まことの値打ちのあるものです」と言っています。

 勿論、生きるためには、自分を養う事や家に住む事や服を着る事も肝心です。 そのために働くことが必要です。 しかしそれだけでは、不十分です。 生きることは自分と人々とを繋ぐ事や、人々と分かち合う事や何かを人に与える事、人から何かをいただくことも必要不可欠です。 そう考えるなら、私たちは新しい見方で物質的なものを見なければなりません。 生きるとは、必要な物質的なものを集めたり、ため込んだりすることではありません。 私たちの物質的なものが良い人間関係を結ぶために、それらを他の人と分かち合う知恵と賢さを示すことが必要です。 今日、特に、それをイエスは私たちに教えています。

 晩年になった時の生活の安定の準備のために、たくさんの富や物質的なものを蓄えるよりも、人間の良い関係、真実に溢れる正しい繋がり、兄弟姉妹的な親しい絆を結ぶために、それらの富と物質的なものを使いましょう。 それを実践するためには神への信仰と人々への信頼が必要です。 知らない未来を恐れている人は、自然に自分の殻に閉じこもって、現在の自分の富により頼む人になります。 しかし、神のうちに自分の信仰をおく人は、何も恐れずに未来に向かって進みます。 というのは信頼する人は、神の摂理が自分に伴い、必ず必要な時に現れることを良く知っているからです。

 私たちが自分の命を軽んじて、無駄遣いしないためにイエスは私たちに教え、励ましています。 信頼のうちに、神の助けと摂理を支えとするなら、私たちの命が力と知恵を受けるのです。 典礼の年間第17番の集会祈願が正しい生き方に私たちを招いています。 「主よ、私たちを導いてください。 過ぎ行くものを正しく用い、永遠のものに心を向けることができますように」と。 主イエスは違う言葉で同じ事を願います。 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6,33)と。 聖霊の助けによって、私たちが「上にあるもの、永遠に留まるものを捜し求めることが」できますように。 アーメン。


        年間第19主日C年  201687日   グイノ・ジェラール神父

              知恵18,6-9  ヘブライ11,1-2,8-19  ルカ12,32-48

  信仰は心を喜ばせながら救いを与えると言うことを「知恵の書」が私たちに教えています。ヘブライ人への手紙では、若い人であろうと年寄りであろうと信仰を持っている人は未来に向かって歩む人だ、ということを思い起こさせます。信仰は試練と死を乗り越える助けになり、そして真の命へ導きます。今日の福音は信仰が恐れを追い出し、神の国の門を大きく開くことを教えています。

  今日のすべての朗読は、信じる人が未来の人だということをはっきり納得させようとします。というのは、信じる人は必ず未来に向かって歩む人です。この未来とは、愛の完成までに全人類を導く主イエス・キリストの到来のことです。イエスが語ったたとえ話は、キリスト者の期待が何であるかを思い起こさせます。そして、この期待は活動的なものでなければなりません。確かに、キリスト教的な期待は「腰に帯を締め、手にランプを持って、目覚めて」働いている召し使いの期待です。急に帰って来る主人に対して準備をしていない人と思われないために、この召し使いは心構えをして、ずっと待っています。

 一世紀のキリスト者は、キリストの到来がとっても近いと信じていました。現在の私たちは「生者と死者を裁くために栄光のうちに主が来られる」ことを信じて宣言しています。しかし、このキリストの到来は自分たちの時代に行われると私たちは考えていません。それを隠さずに認めましょう。確かに、私たちの生き方は栄光の主との出会いの日に向けられていません。私たちはあまりにも心配することが多いので、「目を覚ましている」というキリストの勧めが、直接に私たちのあらゆる力を結集しません。しかし、考えると私たちがイエスと出会う日は、そんなに遠くありません。誰も神に自分の魂を返す日は知りません。ですから、私たちの永遠の運命を決めるこの出会いのために、目覚めていて準備をすることが肝心です。

 キリストが勧めたよい召し使いの態度を持っている人に、イエスは次のことを約束します。「友よ、恐れるな。あなたの父は喜んで神の国をくださる」(参照:ルカ12,32)と。もし、イエスが私たちの人生の宝であるとしたら、イエスは自分たちの心の宝となり、そして誰も神の手からその宝を奪うことができません。洗礼の時に受けた信仰は、私たちが目覚めていて、期待している人に留まることができるように、大に助けになります。この信仰はまた偉大な希望を与え、それは神の国に私たちを入らせる救いの希望です。

 全生涯にわたって信頼のうちに私たちが人生の道を無事に歩むように、信仰は具体的な支えです。信仰によって私たちは未来を築き、そして毎日自分のうちにキリストを歓迎するために、信仰は助けとなっています。さらに、神が完全でいつくしみ深いように私たちも完全でいつくしみ深い人となるように、信仰は私たちに神ご自身の命を与えます。最後に知恵の書が教えたように、信仰は神の永遠の流れの中に私たちを引き寄せるまことの喜びを与えます。

 ですから「腰に帯を締め、ともしびをともして、目を覚ましている人」のようになりましょう。それは私たちが表す信仰によって、全人類が主の到来を恐れずに喜びのうちに歓迎することができるためです。私たちも心を尽くして諦めずに、主イエスが来られるのを待ち望みましょう。なぜなら、言われたようにイエスは「準備している私たちを食事の席に着かせ、ご自分がそばに来て給仕してくださる」(参照:ルカ12,37)からです。アーメン。


       年間第20主日 C年 2016814日   グイノ・ジェラール神父

           エレミヤ38,4-68-10   ヘブライ12,1-4   ルカ12,49-53

  私たちはイエスの弟子たちとして、一致と平和を望んでいます。 これこそがイエスが私たちの手に残した重要な勤めです。 誰よりも、イエスは一致と平和を望みました。 しかし、一致と平和の代わりに、イエスは自分の弟子たちやイスラエルの民の愛の中に分裂と不信しか見つけませんでした。 確かに、イエスが教える、口を開くたびに、人々は分裂状態に陥ります。 そして、その結果としてキリストの敵、あるいはキリストの味方となります。

 平和と一致に夢中になっているイエスは、知らず知らずのうちに自分の周りに恨みと憎しみを生み出します。 まず、親戚の人々を始め、イエスは故郷の人々にも見捨てられていきます。 そして、一致と平和のしるしであるエルサレムの神殿と律法を守ろうとするファリザイ派の人々、そして律法学者たちは、イエスに対して非常に攻撃し死刑の宣告をピラトに願っています。 平和と一致に夢中になっているイエスは、イスラエルの信仰の分裂の中でも、歴史的に一番大きな分裂を引き寄せました。 初代教会の時、人は迫害されたキリスト者となるのか、あるいはキリスト者が大嫌いなユダヤ人に留まるのかの、どちらかです。

 昔、真理を語った預言者エレミヤは、エルサレムの人々の憎しみを自分に引き寄せました。 色んな所を訪れた聖パウロ、イエスの復活の出来事と共に信仰が与える自由を宣言しました。 しかし、キリストを信じる異邦人に、モーセの律法と割礼を無理にさせようとするユダヤ教から出てキリスト者となった人々に強く反する聖パウロは、彼らの敵になり、そして彼らの迫害を耐え忍ぶようになりました。

 「平和の君」であり、一致の証人であるイエスは、日ごとに新しい敵を生み出します。 一致と平和のために働く人は、必ず敵を作り、分裂を起こすことをイエスは良く知っています。 そのためにイエスは自分の弟子たちに分裂と家族間の争い、さらには憎しみからの攻撃の可能性を預言します。 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(参照:マルコ64)とイエスはナザレの人々に忠告しました。 たしかに、一致と平和のために働こうとする人にとって、難しい状態を起こす分裂や争いは、いつも自分の家族や親戚の間から始まります。

 イエスは地上に火を投ずるために来たと言いました。 この「火」とは、金属を不純物から清める火です。 イエスは全人類を清めるために聖霊の火を投ずるために来られたからです。 イエスは善と悪を分裂させるために来られました。 十字架の上で死ぬことによって、イエスはそれを実現します。 「わたしは受けなければならない洗礼がある。 それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と。

 この世では、至る所で、キリストの時代からキリスト者は迫害されていますが、彼らの苦しみは全人類を清め、救うのです。 迫害されている信仰の兄弟姉妹のために祈ることによって、私たちは彼らと親密に一致しているのです。 また、彼らが迫害の試練と苦しみを耐え忍ぶために、私たちは彼らの力と勇気となり、世界の上に神の平和を引き寄せるのです。 これこそ「聖徒の交わり」の神秘です。 もしこれを理解するなら、私たちは信仰のうちに大きな進歩をしたでしょう。  アーメン。


     年間21主日C年      2016821日    グイノ・ジェラール神父

           イザヤ66,18-21   ヘブライ12,5-711-13     ルカ13,22-30 

  神は地上の全ての民にご自分の栄光を現わすことを決められたと、預言者イザヤは約束します。 神の栄光を見ることによって、全ての人々が清められた上で救われ、神を相応しく礼拝することが出来るのです。 しかし、救いは自動的には与えられていないので、イエスは救われた人が非常に少ないと断言しました。 ところで、自分の友であるテモテへの手紙の中で聖パウロが「神は、すべての人々が救われることを望んでおられます」(1テモテ2,4)と、保証します。 この三人(イザヤ、キリスト、パウロ)の話した説明で何を信じればよいのでしょうか、そしてこの「救い」とはどのような救いでしょうか。

 キリストの時代の人々にとって「救われる」と言う言葉は、神がご自分の民を守るために具体的に正義をもって何かを行うということです。 つまり、神の民を救うためにメシアが遣わされ、彼はイスラエルの国を占領するローマ人を追い出すことによって、神の正義を現わすと皆が考えていました。 しかし、イエスがもたらした救いは個人的であり、国の解放とは全く関係がありません。 そういう訳で、イエスと出会うことによって回心するザアカイの家に入ってイエスは「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19,9)と告げます。 と言うのは、イエスが与える救いは遠い見知らぬ未来の中にあるのではなく、むしろ宣言された信仰の中に直ぐに与えられるものです。 「安心して行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7,50、マルコ5,34)と。
 
 ルカの福音によると「救われること」は、いつもイエスの共同体に属することを意味します。 使徒言行録の中でルカは次のように書きました。 「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒2,47)と。 今日の福音においては、戸口から入ろうと望んでいる人々の目の前でドアが閉められます。 どうしてそんなに厳しい結果になるのでしょうか。 イエスは狭い戸口の象徴を通して私たちに答えを与えます。

 この狭い戸口は、地上での私たちの人生です。 終わりのない永遠に対して、イエスは私たちの限られた短い人生の時を対比させます。 「狭い戸口から入るように努めなさい」と。 結局、救いとは私たちが日毎に築いている私たちの人生です。 この人生は、私たちの努力の実りであり、私たちが受けるべき神の賜物でもあります。 毎日、過ぎ去る瞬間は、私たちのために新しい時を開き、それを私たちがキリストご自身を受けるようにこの新しい時を受けなければなりません。 また、生きることは不正に対する戦いです。 狭い戸口に入れない人たちは、不義を行っているとキリストが言いました。 彼らの不義とは、飲み物や食べ物を人に与えることを拒否して、裸の人に服を着せず、困っている人に救いの手を差し伸べなかった人たちのことです(参照:マタイ25,31-46)。

 ですから、愛徳の狭い戸口から入るように努力しましょう。 私たちが食べたり飲んだり、また人々と出会ったりする場所の中で、愛徳と分かち合いの行いによって自分の信仰を証しするところに、今日、救いがあるのです。 私たちが、寂しさからあるいは病気の悩みから人を慰めようとする時に、救いが私たちの人生の狭い戸口に入ってきています。 また、困っている人々に私たちが自分の心と手と財布を開く時に救いをもたらす人となります。 限られた私たちの短い人生の中でキリスト教的な救いの道を示すイエスの残した言葉を私たちは良く知っています。

  私たちの人生の全ての瞬間が、神の救いが入る狭い戸口です。 この救いを上手に掴むように努力しましょう。 もし、私たちがイエスに対して忠実な者となりたいなら、人生の狭い戸口を皆に対して、大きく開きましょう。 なぜなら、どうしてもその戸口から私たちは神の国に入る必要があるからです。 アーメン。


       年間第22主日 C年  2016828日   グイノ・ジェラール神父

       シラ3,17-182028-29  ヘブライ12,18-1922-24  ルカ 14,17-14

 広くて深い海が低いレベルに留まるので、小川も大河も海に自分の水を流すことができます。 ですから、大海は自分に流れ込むすべての水を受け入れることができます。 謙遜について教えているイエスは、同じ事を納得させたいのです。 つまり、ほかの人よりも尊敬されている人、また名誉のある人は最も低いレベルや低い位に自分をおくべきです。 そうすれば、皆が恐れずに、その人に近寄ることができ、そして彼の尊さや偉大さ、本当の価値を認めることもできます。 神の偉大さと同時に自分自身の卑しさを承諾するために、謙遜の恵みは非常に役に立ちます。

 イエスは私たちに謙遜の素晴らしい模範を残しました。 生ける神であったイエスは、私たちの間で普通の人間として貧しく暮らし、そして、奴隷のように裸で十字架の上で死にました。 全ての人が自分の方へ来て救われるために、イエスはすべての人の僕となりました。 ご自分の弟子たちの足を洗ったその直ぐ後で、イエスは彼らに「主」とか「先生」と呼ばれることを許しました(参照:ヨハネ13,13)。 ご自分の後に、弟子たちが宣言する救いが大勢の人にもたらされるように、イエスは彼らに謙遜の模範を残すことで、正しいやり方を教えました。 既に、第一の朗読で知恵のあるシラはそれを教えました。 「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。 そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる」と。

 ご存じのように、イエスは食事に招かれることが大好きでした。 それによって、イエスは人から受けた招待を受け入れる素直さも謙遜の態度であることを教えています。 しかし、それには条件があります。 それは人の家に入ると素直に与えられた席に座り、差し出された食べ物を頂き、そして自分の意見や意思を押しつけないこと、自分ばかりに重きをおく態度を避けることです。 受けた招待に応えることはとても思いやりのあることです。 と言うのは、人に何かを与えることや人を食事に招くことはデリケートなことですから。

 また困っている人や、お返しができない人、何も持っていないので何も与えられない人を大切にすること、そしてその人を幸せにすることを、今日の福音を通し、イエスは教えています。 人を大切にするのは報いを受けるためではなく、また愛され尊敬されるためでもありません。 私たちのものの与え方や分かち合いのやり方も謙遜で、利益を求めないものにならなければなりません。 知恵のあるシラが教えたこと、即ち「子よ、何事をなすにも謙遜であれ。 そうすれば、施しをする人にもまして愛されるから」と。それはイエスの教えと全く違います。

 主が望まれる人になるために謙遜と無私無欲とは必要不可欠な条件です。 謙遜によって人は他の人と共に楽しく親密な関係を結ぶことが容易にできるのです。 幸せは人々に愛されること、尊敬されることの内にありません。 本当の幸せは、キリストのように謙遜になって、全てを行うことの内にあります。 実際にそれを実現する人は、謙遜なキリストと共に天の栄光を受け継ぐ人です。 なぜなら、その人は自分の人生の狭い戸口を大きく開かれた天の門に変化させたからです。 アーメン。


       年間第23主日C年   201694日    グイノ・ジェラール神父

          知恵9,13-18  フィレモン9,10,12-17  ルカ14,25-33

 イエスの後に大勢の群衆が歩き始めました。 イエスは十字架まで自分に従い、ご復活について証しをする忠実な弟子たちを、この群衆の中で見つけることを希望しています。 というのは、目的なしにイエスに従った人が多いからです。 イエスは皆を座らせ、ひとやすみさせました。 なぜなら彼らが自分の人生の目的となる決定的な選びをするようにさせたいからです。 というのは、イエスに従いたいと思う人がすべてを捨てること、そして自分の親戚や自分の人生よりもキリストを選ぶことを要求しなければならないからです。 イエス・キリストの弟子となるためには、難しい道を歩き始める前に慎重に考える時間を求められています。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と。 イエスの厳しい言葉が自分の周りに集まっている弟子たちにだけではなく、すべての人に言われているのです。 すなわち、キリストの仲間になることは互いに何でも喋るよりも、互いに愛をもってすべてを行うことが第一の務めです。 しかし、完全に愛するためには、キリストに忠実に従うことを妨げるものをすべて捨てなければなりません。 それらの邪魔なものを見極めるためには、なによりもまず座ってゆっくり考える必要があります。 愛する人はどうしても明瞭であり、慎重でなければならないからです。

 私たちは皆、ある日、イエスの弟子となることを決めました。 洗礼を受けて感激したにもかかわらず、私たちは日を増す毎にイエスに忠実に従うことが難しいと体験しているのです。 しかし、イエスに対して忠実でありたいと言う望みは、きっとまだ私たちの心の中に生きています。 知恵の書が教えているように「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。 朽ちるべき体は魂の重荷となり、悩む心を圧迫します」と。 弱い人間として私たちの状態を認め承諾することは、毎日背負うべき本当の十字架です。

 そのためにはイエスに対して忠実であるように、自分自身に頼るのでなく神により頼むこと以外には他の方法がありません。 いつくしみの特別聖年の間に、イエスに忠実である恵みを切に願いましょう。  私たちは弱く、その上判断力も足りないので、よい選びをするように、ただ聖霊とイエスだけが助けになります。

 自分の人生を塔のように築くことと同時に、自分の弱さと絶えず戦うこと、これこそが私たちの全生涯の仕事です。 この仕事には知恵と力と勇気が要求されます。 人生の終わりまでイエスに従うことを可能とする、この3つの徳、すなわち知恵・力・勇気は祈りによって与えられていることを忘れないようにしましょう。 ご存じのように出会う困難や思いがけない出来事にもかかわらず、私たちが信仰の道を進み続けるために武庫之荘教会の共同体は必要な大きな支えです。 そのことも忘れないでください。 互いに支え合うことによって、私たちはイエスの示している目的に辿り着くことと、人生の終わりまで忠実であることが可能となります。 イエスの弟子である私たちは一緒に同じ目的を目指しているので、互いを互いに受け入れなければなりません。

 私たちは一緒に祈り、人の人生の希望と悲しみを分かち合って、互いに励まし合い慰め合いながら、イエスが望む聖なる家族となるのです。 なぜなら、同じ愛で結ばれ、キリストによって一致している父・母・兄弟・姉妹となるからです。 この尊い恵みを信仰と喜びと希望のうちに神に感謝しましょう。 主イエス・キリストによって。 アーメン。


        年間第24主日C年  2016911日    グイノ・ジェラール神父

           出エジプト32,7-11,13-14  1テモテ 1,12-17  ルカ 15,1-32

  神であるご自分の父とそのみ心の秘密を知らせることこそ、イエスの唯一の望みです。 神のみ言葉であるイエスだけが、唯ひとり神の神秘を示すことができます。 皆がすぐ理解できるイメージと分かり易いたとえ話しを通して、イエスは神の愛の神秘を語っています。 自分の過ちを悔いて、回心するために罪びとが神に戻る時に、どれ程大きな喜びが神の心の内に湧き出るかについて、今日のたとえ話でイエスは語っています。

 「祝いを開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。 彼は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかったからです」と。 神の大きな喜びが私たち自身の喜びにならなければなりません。 なぜなら、神は私たちが神の喜びのうちに生きるように望んでいますから。 「主において常に喜びなさい。 重ねて言います。 喜びなさい 」(フィリピ 4,4)と聖パウロも勧めています。

 幸せな出来事が起こる時、私たちは自然に直ぐに喜びます。 しかし、本当の喜びは、心から自分の罪や失敗、弱さや惨めさを認めることの中にあるとイエスは教えています。 自分の過ちと失敗を抱いて、許しと新しい力を受けるために神に立ち戻る時に大きな喜びがあります。 自分の過ちを悔い改める人は、神に栄光を与える人であり、また自分がいつくしみ深い神の心に抱きしめられることを望むことであります。 「一人の罪びとが悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とイエスは断言しました。 というのは、失敗と罪がもたらす寂しさの中に閉じこもる態度に留まらないように、私たちの父である神と共に、いつでも喜ぶことを学びましょう。

 九十九匹の羊よりも、より以上に大切にされた失われた一匹の羊のたとえ話は、どれ程私たちが神の目には価値あるかを教えています。  無くした一枚の銀貨のたとえ話は、最も小さな人が神の目にはどんなに大切かと言うことを理解させようとします。 さらに、放蕩息子のたとえ話は、私たち一人ひとりが特別に神の愛する子供であること、また神の愛が絶対に私たちに欠けていないことを思い起こさせます。 私たちが毎日唱えている「いつくしみの特別聖年の祈り」は、同じことを教えています。 神のいつくしみは無限です。 神は「全ての人が救われるように」(参照:1テモテ2,4)望むので、全ての罪びとは神のいつくしみに相応しい人です。

 真の父の愛情をもって、神は私たちに優しい眼差しを注ぎ、私たちを守るのです。 私たちの惨めさを見て、父なる神は非常に感動し、私たちの方へ手を広げて、接吻しながらずっとご自分の心に私たちを抱きしめたいと望んでおられます。 そして終わりのない祝いの食事をしたいと思っておられます。 今日イエスは、それを三つのたとえ話を通して教えようとしました。  そうであれば、喜びに心溢れ、神の限りのない、いつくしみを浴びて、今まで受け今も受けている、そしてこれからの日々も受け続ける様々の恵みのために神に感謝しましょう。  主イエス・キリストによって。 アーメン。


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